一日坊主の教訓
世には三日坊主という言葉もあるが、まさか一日で終わるとは。うぬぬ。まあそれほど面白みのある生活を送ってこなかったからだろうな、と自分をなぐさめる。なぐさめられているのか?
祖母と同居しはじめて、ちょうどひと月が経つ。
実は(というほど隠された事実でもないが)、わたしは祖母が嫌いだ。
幼い頃は離婚して一人暮らしをしていた祖母のもとによく遊びに行ったり、けっこう仲良くしていたと思う。
じゃあなぜか? きっかけならよく覚えている。
わたしには10以上も離れた妹がいるのだが、妹がまだ生まれて間もない頃、近くのイトーヨーカドーに行った。そこでいちごミルクを飲んだら、どうやらアレルギーが発症したらしく、咳が止まらなくなってしまったのだ。
服が接している部分は痒いし、おまけに呼吸器官にもじんましんが出ているようでほとんど呼吸ができない。かなり勢いよく咳き込むわたし(ちょっと止まって、すら口に出せないのだ)だが、祖母は気にした様子がない。ベビーカーを押しているのはわたしなのだが、代わろうか、とすら言わない。
にもかかわらず、妹が飲み物に咳き込んだ瞬間、「あらあら、大丈夫?」。
おい! もっと激しい咳をしとるやつがここにおるじゃろがい!
赤子が可憐であるのはどんな相手にも守ってもらえるようにだと、どこかで聞いたことがある。可憐でなければジャングル・ブックもターザンも成り立たないだろう。妹の可憐さに非はない。非があるのは耄碌した老人(全国の良識あるご年配の方々に深くお詫び申し上げるとともに、この言葉はわたしの祖母のみを示すことを記載しておきます)なのだ。
というかこの人の場合、興味がないと目に入らないだけなんだろうけどね。わたしはこの出来事により、祖母はわたしに興味がないのだろう、と合点してから何の期待も好意も抱かなくなったのであった。
と、まあそんな理由で嫌いだということも母や妹も知っていて、何なら母とわたしはよく悪口で盛り上がるのだが、今回はわたしが仕事を辞めたこと、実家(母や妹が住まうマンションである)に住む場合わたしの部屋はないことから、一軒家の二階にある一室に住まわせてもらうことになった。背に腹はかえられぬ。長年接客業をやってきているので、まあこれもビジネスだと思い日々対応している。
そんな祖母と同居してわかったことが、どうやら祖母、心の底から「自分が中心となって世界が廻っている」と思っているらしい。
近所の家族経営のスーパーが水曜日休みなことに文句を言うし、朝10時開店であることにもぶつくさ言う。今日なんか、ほうれん草が猛暑で値上がりしたというニュースに「消費者に黙って値上がりするな!」とのたまったので耳を疑った。え、ええと……?
なんだろう。べつに世の老人がみなそうだと言うつもりはないし、中年だろうが若者だろうが、嫌なやつは大勢いる。この祖母の言動も、老人だからというよりは性格がおおむねを占めているだろうと思う。
一方で、「老いる」ということは、他者を思いやることが出来なくなることだとも思うのだ。心が老いている。そう感じる。
わたしはまだ老人に入る年齢ではないので、例えば身体が思うように動かなくなったり、不自由なことがたくさんあるんだろうと想像する。自分のことで手一杯で、周りを気にする余裕がなく、一方で気にしてくれない周りに憤る。その度に、たぶん、イヤポイントが貯まるのだ。そのうえ、昔の常識にとらわれているとどんどん進んだ現代の常識が受け入れられない。またイヤポイントが貯まる。イヤポイントの貯金が増えれば増えるほど、「最近の若者は」だとか「最近の世の中は」だとかイヤポイントを口に出し、老いていくようになる。身体が。心が。
かくいうわたしも祖母と暮らしたことでイヤポイントが貯まりつつあるが、どうかこのことを忘れずに生きていたいとも思う。イヤポイントという名から、教訓というものに変えて。
とはいえ、日記ですら一日坊主のわたし。はたして自分が老人になったときに覚えていられるのだろうか……不安。