人間活動日記

はやく人間になりた~い!

忍者になりたい

 う~ん。気づけばまた日が空いてしまった。こんばんは、私です。

 まあ仕事に精を出しているからこそ、便りのないのは何とやら、だ。実際、私はこの三日間遅れて研修を受けていて、ひたすら肌をつねったりばれぬように飴を舐めたりなどして眠気と戦いながら座学を受けていた。正直普段の業務のほうが楽だった。

 そんなわけで、私は今日と明日が休みだ。基本的に「休み」は「休むための日」だと思っているので、今日一日は寝て過ごした。ゲームをしたり、動画を観たり、何の生産性もない日だが本来休みとはそうであるべきだ。

 だから私は「休みの日何してるの?」という質問をしてくるやつはブチ倒すと思っているし、映画だとかあたりさわりない趣味を述べながら「休みの日は休んでるに決まってんだろボケ」と心のなかで罵倒している。心が狭いと思われてもいい。

 というか「休みの日何してるの?」って質問の意図が分からないもんな。ぶっちゃけ何と答えられても「へ~」としか返せなくないか? 休みの日なんて永遠にベッドの上でゴロゴロしながらオモコロ読むだけで終わるよ! おかえりのキス装置画期的じゃ~~~~ん!とげらげら笑って笑い疲れて昼寝して寝て起きてYouTube観てオモコロ読んで終わりです!以上!

 もしかすると私が「へ~」としか言えないような休日を過ごしているからそう思うのかもしれない。ま、休日なんて人それぞれでいいのだよ。

 それはさておき、表題である。

 私、いまものすごく忍者になりたい。忍者になりたいっていうか、二階にある自室の窓からそのまま外に出て買い物に行きたい。明日も休みだから、ポップコーンと炭酸飲料と一緒に映画か海外ドラマ(今ならスコーピオンだな)を観まくりたい!

 なぜかって~と階下に祖母がいるからです。うなぎ屋でカウンターに通されただけでブチ切れた祖母が。

 実はここ数日、あんまり顔を合わせたくないな~と思ってしまっている。それもなんとなく察してはいたんだけど、私がいない間にどうやら部屋に入っているらしいのだ。

 元々、階下にある冷蔵庫に入りきらないものを私の部屋の冷蔵庫に入れたり、二階にあるトイレ(リフォームして作ったのでわりと新しい)を使うことがあるかも、みたいな話は聞いていたので、まあそれぐらいは仕方ないなと思っていた。そもそも私はしばらくニート期間があって金もなく、実家(私の母・父・妹が住む家のことである)には最早私の部屋がないので住まわせてもらっている立場だから弱い事も承知している。

 が、私はほんと~~~~~~~~~~に自分のプライベートゾーンを侵されるのが嫌いなのだ。嫌いという言葉じゃ足りないぐらい。超嫌い。嫌悪。ほぼこんなもん。

 中学時代、母が再婚する事になって自室を与えられて以来、ずーーーっと部屋に鍵をかけて生活していた。別に再婚相手のことを信用していないとかではなく、元々、オタク趣味なこともあって、ひっそりと過ごしていたいのだ。パーソナルスペースとはすこし違うかもしれないが、自分の領域、というものに敏感なのだろうと思う。ここが私の領域だ!と定まったのなら、許可なく足を踏み入れてほしくない。

 厳密にいうのであれば、この家は祖母のものなのだから、私がそう感じるのはお門違いなのかもしれない。が、私がいない間に入っておきながら「ゴミの日にはゴミ全部捨てなくちゃダメよ~」とか口を出されるのめちゃめちゃめちゃめちゃ嫌だ…………と思うのはいけないことなのだろうか。いつも階下のゴミが入ったゴミ袋に最後私がまとめてゴミ出しをするのだが、階下のゴミが多いので入りきらず、乾きゴミだけ次のゴミの日に回しているだけなんですけど…………。

 多分私がいない時ガンガン部屋に入っているのだろうなと感じる理由はほかにもあって、前、私が(あまりにも祖母と二人に耐えきれなくて)実家に泊まると嘘をついてカラオケで一晩過ごした日があった時のこと。始発で帰ってきたものの、結局カラオケでほぼ寝ていたので、帰ってもそのまま起きて本を読んだりしていた。すると階下から上がってきた祖母が、何の躊躇いもなく私の部屋の扉を開けたのだ。これこそが全てであろう。「いるって分かってたら入らない」と言われたが、いないと思ってても入ってほしくないのですが………。

 私はけっこう汚部屋製造機のきらいがあるので、家主である祖母がそれを危惧するのは若干仕方ない気もするが、一方でだからこそ私は私なりに今ものすごく気を付けているのだ。自分基準で恐縮だが、今の私の部屋はまあまあ悪くない。と思う。

 まあたぶん、基準が違うのだろう。「ここまでは許容範囲」という汚さの基準が。友人同士のルームシェアはもちろん、結婚のあれやそれやなど、そのあたりの許容範囲が合わないと辛いとはよく聞く話だが、血の繋がった家族でも似たようなものだ。

 女子は嫌いなものが共通すると一気に仲が深まるというのは私の持論なのだが、言葉にするとすごく嫌ないきもののように思えるものの、一方で許容範囲の問題だと思えば頷ける。許容範囲が似たような人物とは打ち解けやすい。そういうことだろう。

 思えば、好きなものを嫌いな人に対しては特に何も思わないが(個々の趣味なので)、私の嫌いなものを大好きだという人間に対しては「きっと私とは相性が悪かろうな」とつい思ってしまう。逆の時は趣味など好きにすればいいと思うのに、「『ラ・ラ・ランド』が大好きというやつとはマジで合わんだろ~な」と本気で思うのだ。

 つい先日のことだが、職場での先輩(だが年齢的には後輩)との会話中、私がもう一人の先輩と「『ストロボ・エッジ』(別マで連載していた少女漫画である)の主人公の女嫌いなんだよね」という話をしていると怖がられた。だいたい漫画を読んでいて、好きになれるキャラクターと生理的嫌悪を催すキャラ(往々にしてそういう少女漫画はやっぱり売れていないように思うが、咲坂伊緒だけは例外だなと常々思う)がいて普通だと思っている私としては、別にそれを口に出すことも、そう感じることも何とも思わないのだが、先輩にとっては違うようである。埋まらない溝だった。

 許せること。許せないこと。そのラインを持つことは大事だろうと思う。けれど一方で、もうすこし人に対して寛大であってもよいのかもしれない。怖がられるより、嫌いなものを人と共有して安堵するより、好きなものを話して笑うわたしでありたい。

習慣

 明日が休みだからと夜更かしをする予定だったのに、気がついたら朝だった。

 夜更かしをしたからではない。風呂上がりにとりあえず落ち着こうと(この時点で謎なのだが)ベッドに横になったら、そのまま寝入ってしまったようなのだ。夜型から朝型の仕事になってからなるべく早寝をするよう心掛けてはいたのだが、働きはじめてまだ一週間でここまで身体がしっかり習慣に馴染んでいるとは驚きだった。目が覚めたときには朝5時55分、仕事の日であればアラームが鳴る時間だったので習慣化はきっちり成功していると言えよう。

 そういう意味で、私の身体は習慣に馴染みやすい。すこし夜更かしをするだけで、すぐにその生活に馴染むのだ。Amazonプライムウォーキング・デッドを観ながらポテトチップスを食べる日ができると、それ以降ウォーキング・デッドを観るときはかならずポテトチップスを食べてしまう。だから太る。わかっちゃいるんだよな。

 一方で、身体は馴染みやすいわりに意識的な習慣というとそうはいかない。その最たるものがこの日記なわけだが、とにかく既にお察しのことと思うが続かない。むしろ今、たとえ毎日連続でなくとも書き続けていることのほうが奇跡だ。恐らくは今、やることが仕事以外にないから出来ているのだろう。

 ほんとうは、趣味で小説を書いたりもしているのだが、ここ一年家族以外とのかかわりを絶っていて、外出もほとんどしていないのでインプットがすっからかん。アウトプットするためにはとにかくインプットが必要なので、今は毎日すこしでも文字を書き、それを継続することを習慣化したいと考えている。

 

 と、ご立派なことを書いたの、いったい何日前だったのだろうか……。

断食

 PARASTICAの断食の動画を見た。

 以前東海オンエアの動画を見たときもちょっと断食をやりたくなったのだが、今回も同様だった。週末断食というコースもあるらしいし、それぐらいならできそうだと思えるんだな。

 ただ、私は知っている。

 断食がやりたいというより、断食を理由に引きこもってゴロゴロしていたいのがただしいということを。

 プールの日の生理みたいだね。

 

仕事をはじめただけなのに

 ぎゃー。ひっそり毎日更新を(心のなかで)謳っていたのにもう四日も空いている。『あなたの番です』最終回の感想を書こうとおもって下書きに3行書いたものを眠らせたまま、今日もこのあとすぐ寝るつもりだよ。こんばんは、私です。

 仕事をはじめただけなのに、気を抜くとこんなにも空いてしまうのかと思い知った。デスクワークだし使うのはほとんど頭だけ、みたいな仕事なんだけど、日がなニート生活をたのしんでいた身には荷が重すぎたか…体重も重いしな……制服の採寸のとき、迷いなく「一番上のサイズをください」って言っちゃったもんな。止められたけど。いや自分の身体は自分がいちばん分かっているのよオホホ。

 しかしニート時代(というか祖母宅に越してくるまで)の私はまさに昼夜逆転というか、朝まで起きて午後まで寝るという生活を送ってまさに自堕落だったので、今の生活をしていると「ああ、人間…!」とつくづく感動する。ニート直前の仕事がフリーランスで、且つ休憩?ご飯?いつでも自由に生きなはれ~リフレッシュにどっか行ってもええで~自宅で仕事できるなら自宅作業でもええで~なお定時の概念はありません、みたいな仕事だったので、休憩の時間がしっかり定められていて残業するにも申請がいるみたいな現在の職場はほんとうに新鮮である。

 ただ今までやった仕事(バイト含め)の中では唯一「興味が一切ない」分野のため、とにかく用語やら取引先やらの名前を覚えるのに時間がかかりそうだ。

 正直前職の先輩に言われた言葉で「私さんは好きなこと以外したくない人でしょ」というのが印象に残っていて、私自身「わかりますか?」とその場で言える程度には自覚があった。好きじゃないとできないのだ。学生時代のアルバイトであるディズニーランドも基本は「好き」のエネルギーを動力源にしていたし、だからこそオンステでは常に笑顔で!と言われても難なくこなせた。前職は省くが、前々職は書店員だったので、小説映画漫画が好きな私にとってはこちらも同様だ。前職は書店つながりで得た仕事のため、こちらも以下略。

 それでいうと、現在の仕事は私の「好き」というエネルギーを一切使用していない。興味もないし、場所で言うとむしろ嫌いに入るぐらいだ。

 だけど正直なところ、私はけっこう楽だなと思っている。名前を覚えられないことだけ難儀だなと思うが、仕事だと思って覚える分には苦にならない。好きじゃないので現段階でできないことをストレスに感じないし、仕事とプライベートの切り替えがわりあいきっちりできる。

 正直、この数年間、職場から離れても仕事のことを考える時間が多かった。何を見ても、何を読んでも仕事に繋げてしまい、趣味と仕事が一緒になってしまった。

 だから仕事をしているとき、趣味を楽しむように楽しめるときもあれば、できないときは倍以上につらかった。

 後半はそのつらい時間が増えに増えて、おまけに納得できないことも増えて、コンプレックスにまつわるストレスや、不満と、がんばれない自分への憤りも山ほどあって、自分の「好き」にも自信が持てなくなって、気がついたら仕事に行けなくなった。一日休めば、が三日になって、三日休めば、が一週間になって、ということを繰り返した。何度も上司に励まされて、自分でもがんばろう、がんばろうと考えて、けれど夜は眠れない、朝起きたら起きたで動けない、そんな日々が続いた。働けなくなって、貯蓄が尽きてからは、親を頼った。本当に申し訳なかった。

 これは両親にも言っていない……というか、両親にしろ上司にしろ言いはしたが、本質的にはどちらも理解してくれなかったように感じる私の根底の悩みが、「自分が好きだと思うものに自信が持てなくなった」ことだった。「自分が面白いと思うかどうかだ」という話をよくされて、けれど色んな意見を聞くたびに、「私が好きなもの」「私が面白いと思うもの」がどんどん分からなくなった。それが一番辛かった。大好きな人たちの、大好きな分野の力になれないことも辛かったけれど、自分が好きだと思っていたものが分からなくなること。自分の気持ちがわからなくなること。それが一番辛くて、一番悲しいと感じた出来事だった。だって、私はその仕事に「好き」の力を買われて入ったから。

 今でも「前の仕事を頑張って続けていたらどうなっていたかなあ」と思うことは、とてもある。後悔というよりも、ひとはこれを未練と呼ぶのだろう。

 けれど一方で、もう無理だと身を引いて、別の仕事に移ったことについて、後悔はしていない。前述したとおり、私は今人間的生活を送っていて、さらに前職と違って「まったく興味のない分野だからこそ切り替えてストレスフリーに働けている」と感じている。前職への未練はあっても、もしも前職を続けるとしたら、それでも今みたいに一度リセットする作業が必要だろう。私はけっこうスッ………と辞めたのでもう戻れないだろうなとは思うが、一方で、もし戻るつもりがあったとしても、今の道を歩むべきだったと感じる。オンオフが分けられない仕事だからこそ、自分でどうにかする努力が必要で、そのためには切り替え力を蓄えねばならぬからだ。

 うーん。しかしこれはもしかしてやっぱり未練タラタラなのかしら?

 なんだかね。むずかしいね。

 

 頭が働かないので寝ることにする。おならぷう。

おなら

 さっき眠い目で鏡に向き合っていたら、背後からとんでもない音がした。完全に長めのおならの音だった。

 いったい誰が?と思ったらどうやら窓の隙間風でそう鳴いたらしい。

 台風の強さを思い知った。

ああ離れがたし角栓パック

 この15分ほど、鼻から取れた角栓をただただ眺めていた。

 …という書き出しを書いたところで記憶が途切れた。気づいたら朝だった。書き出したの、まだ21時過ぎぐらいだったんだけど…。新しい仕事が朝からということもあって、ここ2週間ほどは意図的に早く寝ていることもあるのだが、それにしたって早すぎる。今晩『あなたの番です』の最終回があるんだけど、果たして起きていられるのかな…。

 それはさておき、角栓パックの話。

 角栓パックの存在を知ったのは確か高校生ぐらいの時だったように思うが、その頃からまことしやかにささやかれているのは「角栓パックって逆に毛穴広がるからやめた方がいいらしいよ~」ということである。まあ確かにガムテープで毛抜きするのと似たような感覚があるので(?)まったくその説に異論はない。

 が、それでもXX歳になった私はいまだにやってしまう。

 ああ、離れがたし角栓パック。

 そもそも私が角栓パックをするのって、美容意識のたまものではない。あの、真っ白(たまに真っ黒)なパックの上に、ちらほらと茂る角栓の草原。「おお、おお、こんなにも私の鼻に生えておったのか」と確認すると共に、まるで農家の人が収穫した野菜やら何やらの山を見て感慨にふけるような(角栓と一緒にされちゃたまんないよなと思う全農家のみなさまにお詫び申し上げます)、そんな感覚を楽しんでいるのである。ちなみに今はもう寝て起きて朝になってしまったのだが、昨日おぼろげな頭で書こうとした日記には、鼻がつるつるすべすべであることも書こうとしていた。これも角栓パック快感のひとつである。

 しかしこの角栓パックもそうなのだが、たとえば女性の(もちろん男性も)こういった身の回りのケアというか、言ってしまえば腋毛とか、いつから行われるようになったのだろう?

 言わずもがな大昔はそれこそボーボー(汚い話ですみません)だったと思うのだけど、たとえば映画で見るクレオパトラなんかはもちろん綺麗な腋をしているが、一方で本物のクレオパトラは果たして処理をしていたのだろうか? 処理をしていたのなら、いったいどんな処理方法だったのだろう?

 そもそも、いつから腋毛が恥ずかしい、目に見えるとみっともない、という概念になって処理がされるようになったのかも謎である。いや、たしかに誰だって腋からボーボー(汚い話で以下略)はなんだかなぁと思うかもしれないけど、でもそれは現代に生きる私たちだからこそ思うことなのではないかと思うのだ。

 だってクレオパトラなら腋をそのままにして佇んでいても美しそうじゃない? 傾国の美女なわけだし…。顔とスタイルがよければそんな些末なこと気にするこたぁないって思うかもしれないし。懐の狭い男はモテないからな。

 あれ? でも日本画とかで天女に腋毛が生えてるのは見たことがない気がする…。もしや日本では昔からムダ毛処理が行われていた!? そういえば時代劇とかに出てくる髷?は確実に頭を剃り込んでるから、剃刀は存在していたんだろうし…ということはムダ毛処理も可能という理論になる。そのうえ、クレオパトラならいざ知らず、日本人が「腋の毛が見えるなんてみっともない…」と処理をしている姿はなんだか想像がつく。うん。ぴったりだ。

 私? 私はそもそもノースリーブを着ないので……To be continued....

生きてるだけで、罪。

 本日市役所に行ってきた。週明けから向かう職場に住民票を提出しなければならないため、それを取りに行ったのである。ついでに、移してない住民票も移して来い(意訳)と言われたので、それも行おうと思って行った。

 本当は銀行口座も開設したかったのだが、私の唯一の身分証明書であるパスポートが引っ越しのごたごたでどこかに行ってしまい(なぜ?)、おまけにだらだらしていたら時間がギリギリになって間に合わなかったのだ。自業自得である。ガハハ。

 とはいえ、私は役所というものが本当に苦手だ。というかニート期間があったりなんだりで国保や年金の振り込みが滞った後、「すみません…」とお伺いを立てるために向かうイメージが一番強いからだと思うのだが。まともな人間じゃなくてすみません。

 しかし大人になって思うのは、なんでただ生きてるだけでこんなに支払うものが多いんじゃということ。私は前職がフリーランスという立場だったので、国保と年金には本当に苦しめられた。いや年金はその前ぐらいから苦しんでるけど…。病院にだって全然行ってないのにな。私は結構自分の身体に無頓着なので、ここ数年ぐらい生理不順だけど気にせず生きています。行けよって話なんですけどね。

 もちろん、これらを支払うことで現在のシステムやらなんかが成り立っているのだろう。ただ一方で年金なんかは、いざその時になってもらえるのか不安な毎日が続いている。今支払っている年金は「未来の自分」のためじゃなく、「現在の老人」のためなんだろうなあ…。恩恵がないもの、実体のないものに支払って消えてゆくお金のことを思うと、詐欺だとかマルチ商法だとかと年金というものはどこに差があるのだろうと考えてしまう。

 ちょうど書店で働いている時代、マルチ商法に誘われたことがあった。誘ってきたのは、高校の友人だった。

 私は少なくとも仲の良い友人だと思っていたし、ビジネスの話だとしか言われなかった(のと私がとんでもなくボケていた)ので、「起業でもしたいのかな~その相談かな~」などとぼんやり考えていた。当時書店の仕事が終わるのが23時ほどで、その日彼は深夜からなら…というので、まあこいつのためなら深夜からでも時間を空けてやるか、と勇んで待ち合わせたのであった。

 雲行きが怪しくなったのは待ち合わせで合流した車の中、「先輩に会ってほしいんだよね」と言われたときのことだ。ひょっとして、と思い、「そういえば私言い忘れてたんだけど、起業(?)するにあたってまず幾らお金を出してほしい、みたいな話なら無理だからね」と釘を刺しておいた。彼はただ笑って黙った。もちろんそれは何も言えなかったからだろうと気づいたし、その後ファミレスで合流した先輩とやらに「やっぱりな」と感じたのであった。

 もちろんその話は眠い頭でうんうんと聞き(深夜3時ぐらいだったので)、わりとその場で答えをせがまれたが「眠すぎて何も考えられないのでまた今度」と返事を流し帰路についた。答えなど決まっていたが、ねばられるのも面倒だったからだ。友人と二人きりになったタイミングで「私はやらないと思うよ」と告げたし、その後LINEで念押しのような誘いをされたが、それも断った。「ただこれを広めるだけで、この人(トップ?)がすごいって言ってるだけでお金が入るのに」と言われ、マルチがどうのこうのというよりも、その考えが私には合わなかったのだ。

 アフィリエイトなんかも私はピンとこないのだけれど、他人の功績を「えらーい!すごーい!天才ー!」と褒めて頂戴するお金って、何がいいのだろう? 私は批評家の類もけっこううさんくせーなと思っているので、プロの批評家(←この時点でうさんくさい)よりも、趣味でやっているブログの記事なんかを読むほうが好きだ。もっとも、知らないだけでアフィリエイトになってるブログもあるんだろうが、それだけの文章を読ませてもらったなら許容の範囲だろう。実際、映画『キングスマン』に激ハマりした時にブログを巡っていたら、大学時代所属していた映画研究会の先輩がやっているブログに行き当たり、さらにはさまざまな雑誌やら何やらでコラムのコーナーを持っていたりして、その「好き」のエネルギーに感動したものだ。プロの批評家ってまあおしなべてそういう人たちのことを言うのかもしれんが、プロと肩書がついたあたりでまず批判から入るようなタイプも多いので、やっぱりうさんくせ~と思うんだよな。ま、これも批判から入っておりますが…。

 私はぐうたらでなまけもので、働かずに済むなら一生寝て漫画と映画とドラマとアニメを見て過ごしていたい・そしてそうしろと言われたら出来てしまう人間だ。宝くじを買ったことだってある。だけど一方で、そういった虎の威を借る狐みたいな方法には興味が湧かないのは、どうしようもない人間である私の唯一の美点だとも思う。

 そんなぐうたらでなまけものな私だから、言う。日本年金機構よ。いや、国よ。えらいと言われている人々よ。私たちが支払う年金は、どうか「現在の老人」へのお布施ではなく、「未来のわたし」への貯金にさせてくれ。NHKから私たちを守るとかのたまう前に、その辺のことをしっかりしてください。頼むぜ。私、定年しても本読み続けたいし、書店を経験した以上、本は買うものと決めているんだよ。

 真面目な話になっちまったな。おならぷう。